新しい”離れ”で

新しい”離れ”でーー

 

この日はもう遅いから、と夕餉は女中さんが運んでくれた。

 

詩は1人、湯を貰おうと、期貨教學 かまどに薪をくべていた。

ありがたいことに、運んでくれていた水。

ぎっちり積んでくれている薪。

 

1人で何でも、なんてーー

 

詩は思う。

 

1人の人間が生活するために、どれだけの人の手を借りているか…。

 

この薪だって、森から切って運び、斧で使いやすいように割って、ここに積んでくれた人がいる。

 

この水だって、だれかが運んでくれて、ここにある。

 

火が赤々と燃え上がる。

 

薪の燃える匂い。詩は何度か外と中を行き来して、湯加減を確かめる。

 

ーーうん、これならーー

 

ぬるくならないように、薪を足して、それから中に入った。

 

シュルシュルと着物を脱ぎ、カラダを清め、熱い湯につかる。

冷えた肌には、思ったより熱かったけれど、なんとか入る。

 

もうもうと立ち上る湯煙。

 

じんじん痺れるほどあたたかくて、芯からホッとするようだった。

 

見上げた格子窓から、星が見えた。

 

詩はぼんやり考える。

 

『卯月まで』

 

もうすぐ年が明ける。

卯月。それまでにどうなっているのか、詩には皆目見当もつかない。

 

詩は湯の中でギュッと自分のカラダを抱きしめた。

 

ーー父上、母上。

 

詩は…強くなります。

 

自分のことは、自分で決められるように。

 

自分の気持ちを、大切にできるようにーー

 

冬の澄んだ空気。夜空の、満天の星。

 

ーーと

 

ーーなんだか…熱い…

 

急に頭がぼうっとする。

 

のぼせたかと湯船の縁に手をかける。

 

詩の視界がぐらりと揺れる。

 

ーー……

 

詩の意識はそこで途絶えた。

 

 

 

 

近くの木の上にいた牙蔵は小さく舌打ちをする。

 

伊場に交代してもらうため、指示をしていたところだった。

 

「…!桜さん…」

 

伊場も詩の異変に気づき、向かおうとする。

 

牙蔵は伊場の肩をグッと掴み、それを制した。

 

「…いい」

 

伊場は驚いたように牙蔵を見る。

 

牙蔵は面倒くさそうにしながら、伊場に

 

「ここにいろ」

 

と低く告げると、一瞬でザッと木の下に降り、詩のいる”離れ”に入った。

 

風呂場に踏み込むと、詩は浴槽の縁にもたれかかるようにして意識を失っている。

 

「…はあ…」

 

牙蔵は小さくため息をつく。

 

詩の顔もカラダも真っ赤だ。

 

ザバッ…

 

牙蔵は濡れることも厭わず、詩を素早く抱き抱え上げ、湯から出した。

 

今は全身桃色に染まった詩の華奢なカラダ。

 

冷たい空気に、カラダからホカホカ湯気が立っている。

まるでつきたてのお餅みたいだった。

 

脈は少し早いが、呼吸は安定している。

 

「…」

 

牙蔵は腕の中の、詩の顔を見下ろす。

 

少しずつ、脈も落ち着いてきている。

 

吸い込まれるように、牙蔵の顔が詩に近づく。

 

小さな唇。

 

「…」

 

牙蔵は瞬きすると、自分を嘲るように、苦く口角を上げた。

ーーくすぐったい…

 

髪を優しく撫でる手ーー

 

詩は淡い夢の中にいた。

 

父の膝の上にちょこんと座る自分は、父の大きな手に頭を撫でられている。

 

膝の上で身をよじって父を見上げる。

 

父が、優しい目をして、微笑んで頭を撫でてくれている。

 

何も言葉は無くても、伝わってくる気持ちーー

 

”お前が大事だよ”

 

”愛しているよ”

 

そんな思い。

 

ーー父上…

 

幼い詩は安心して目を閉じる。

 

あたたかくて、大きな父親。

 

すっぽり包まれて、ここは安全で。

何があっても、安心でーー

 

このまま、ずっと、ずっと撫でられていたい…そんな気持ちになってしまう。

 

詩の瞳がパチッと開いた。

 

急に覚醒した詩は、褥に横たえられている自分に気づいた。

 

「…」

 

ーーあれ…私、はーー

 

闇は深く、もう夜中らしい。

 

詩は襦袢をきちんと着て、その髪も乾いている。

 

ずっと、撫でられていたような感触が、頭に残っていた。

 

むくりと起き上がる。

さっきまで誰かがいたかのように、何となく手を着いた畳の上が、わずかに温かい。

 

ーーえーと…確か、お風呂に…入って…?

 

「気がつかれましたか、桜さん」

 

その時、控えめな声が襖の向こうから聞こえた。

 

「…大丈夫、ですか」

 

「…伊場さん?」

 

聞き覚えのある声に、詩は慌てて羽織をはおると、襖の前に一旦正座をして、襖をほんの少し開けた。

 

土間に膝をついて、伊場が頭を下げていた。

 

「伊場さん」

 

詩は安心して襖を大きく開けた。

詩の声に、伊場は少し顔を上げる。

 

「桜さん、お風呂でのぼせてしまったようで…意識がなかったんです」

 

「…えっ…あ!」

 

言われてみれば、詩の記憶は熱くてお風呂から上がらないとと思ったところで途絶えていた。

 

詩は恥ずかしくてカアッと赤くなる。

 

「っ…すみません…

 

あの…助けていただいて、ありがとうございました。

 

お恥ずかしい限りです…」

 

嫁入り前なのに、一度ならずや二度までも、殿方に肌を晒したーーそう思っただけで詩はもう、消え入りたい気持ちだった。

 

伊場は慌てて首を振る。

 

「いいえっ…その、某は何もっ」

 

詩はいまだ頬を染めたまま、伊場を見つめた。

 

「…全部…牙蔵さんが」

 

「っ…」

 

「牙蔵さんは任務のために城を出る直前だったのですが…

 

桜さんのことは、自分がするからと」

 

「…」

 

「…さっきまでおられたんですよ」

 

詩を気遣うように優しく微笑む伊場に、詩は何も言えなくなる。

 

ーー牙蔵さんがーー

 

目に浮かぶのは、ため息をつきながら面倒くさそうに自分を助ける牙蔵の姿。

 

「…」

 

詩は恥ずかしくてまた頬を染める。

 

「さあ、お水を」

 

伊場は、水瓶から柄杓で水を掬うと、湯呑に入れて詩にお盆ごと差し出す。

 

「…ありがとうございます」

 

詩はお盆を受け取る。

 

「牙蔵さんから言われていますので…。

今夜は枕元に置いてください。脱水を心配しておられましたよ」

 

伊場はニコリと笑った。

 

詩は頭を下げる。

 

「では、桜さん、お休みなさい。

 

私はこの近くにいますのでご安心を」

 

言うが早いか、伊場は音を立てず外に出て行った。

 

「あ…」

 

詩は湯呑の水を見つめる。

 

なぜか、詩の喉は充分潤っている。

 

詩は口元に手を触れた。

 

何かーー?

その違和感が何なのかわからないまま、詩は褥に戻った。