に居た記憶が無

 に居た記憶が無い桜司郎は、ぼんやりと考えるがやはり思い出せなかった。

 

 

──私の両親は生きているのだろうか。治療腺肌症經歷 故郷は?友人は?何故、女子の身でありながら剣術を?

 

「……やっぱり思い出せない」

 

 その呟きは冷たい風に誘われて空へ消えていく。ふと、孤独だと思った。人とは厄介なもので、そう認識すれば、たちまち心が野ざらしにされたような感覚に陥る。

 

 

 足を進めていくと、小さくも枝を広げた桜と思わしき裸の木が目に付く。あちらこちらに似たような木があるのにも関わらず、何故かこれに強く心が惹かれた。心当たりがないのにも関わらず懐かしさに胸がいっぱいになる。葉すら残らない枝に、ふと薄桃色の花びらを思い重ねた。

 

 暫くの間、そこで佇んでいると近くの表長屋の戸が開く。思わず振り向くと、そこから出てきた老人と視線がかち合った。

 

 すると、老人はゆっくりと近付いてくる。

の長屋へ住んではった吉田はんとお知り合いやろ?随分前やけど、なんべんか来てはったもんなァ」

 

 その言葉を聞いて、吉田栄太郎のことだと直ぐに分かった。静かに騒ぎ出す心を抑えて、怪しまれないように平静を装いつつ口を開く。

 

「そうです。あの、吉田さんが何か……」

 

「居らんなってもうてから、荷の処理に困っとったんどすわ。ええ御仁やったから、勝手に売り払う訳にもいかへんし。お侍はん、引き取ってくれへんか」

 

 

 吉田がこの世を去ってから二年という月日が経っているが、老人は未だにその部屋を残しているという。桜司郎は戸惑いつつ小さく頷くと、老人の後へ着いて小路に続く裏長屋の一室へ入った。

 

 部屋の主が居なくなってから、この部屋は時を止めていたのだろう。埃が積もり、蜘蛛の糸がところどころに張っていた。

 

 

「お邪魔、します……」

 

 どくんどくんと胸の音が大きく鳴る。部屋の端には畳まれた薄い布団が寄せられており、小さな文机の上には本が何冊か置かれていた。

 

 桜司郎は床へ上がると、その本へ手を伸ばす。薄く積もった埃を手で払った。

 

「"孟子"に"聖教要録"、ん……これは」

 

 有名な本の中に一際古びたものが混じっている。それには"留魂録"と表紙に書かれていた。恐らく自分で書き写したのだろう、売っているものに比べて字が荒い。そして何度も読んだせいか紙が擦り切れており、所々文字が読めない。

 

 "松陰先生御言葉"と最後の頁に書かれていたが、松陰の字は縦に線が引かれ、寅次郎と横に付け加えられていた。彼の最期が罪人として終わりを告げたため、万が一没収されることを恐れたのだろう。

「とら、じろう……」

 

 そう呟けば、左胸の刻印が切なく疼く。桜之丞の感情なのだろうか、何処か遠いところで叫んでいるように心が震えた。

 

 また呑まれてしまうのが怖くて、手元の本から視線を逸らす。引き出しがあることに気付き、それへ手を伸ばした。その中からは吉田が使っていたと思われる筆や硯が出てくる。

 

 それに触れた瞬間、桜司郎の脳裏にはいつかの光景が浮かび、驚いたように目を見開いた。胸の奥に閉じ込められている何かが戸を叩き、錠前が揺れるような音が鼓膜に響いた。

 

 

 ふわりと桜の香りが鼻腔を掠める。

 

 

『──次は僕の書いた通りに書いてみて』

 

『難しい……こうかな……』

 

 美しい黒髪に藍色の着物に身を包んだ男が後ろで本を読み、文机に向かう自分の姿が見える。

 

 

 

「あ、ああ……」

 

 桜司郎は額に手を当て、苦しむような声を漏らした。一瞬のことだったが、このように具体的な光景が見えたのは初めてのことである。

 

 そこへガラリと戸が開き、家主の老人が入ってきた。びくりと桜司郎は肩を震わす。

 

 

「お侍はん、どうでっしゃろ。荷は纏め終わりましたやろか」

 

「あ、え、えっと。もう少しだけ待って頂いても……」

 

「へえ。ごゆるりと。次の借り手がある訳でもあらへんからなぁ。日を改めてもろても構いやしまへん」

 

 その言葉を聞いた桜司郎は顔を上げた。では、と部屋を出ていこうとするその背へ衝動的に声を掛ける。

 

「あの──!」

 

「へえ」

 

「今までの家賃も私がお支払いします。それと、これからのも……。