「それだけでも良かったがね。孫将軍には私も世話になったことがあってな。官が走り回り大混乱を起こす一両日中ならば、どさくさ紛れに時間を作り陳留王に謁見させてやる位は出来るがどうだ」
ハッとして振り向くと、飄々としたいつもの馬日碇ではなく、真剣な瞳をした老人が居る。ここで一つ意志を伝えておかねばならん、渡りに船と乗って好いものか?
その瞳をじっと見詰め、期貨交易 偽りや罠の類ではないと確信を得る。
「馬閣下のお心遣いに感謝を」
拱手し腰を曲げて頭を下げた。この場での最大限の謝辞を表す物だ。いつもの笑顔に戻ると「ついて参れ」小躍りしそうなほど軽快な足取りで建物がある奥の細い道を進んでいった。
退位の準備と同時に即位の準備が行われている。あちこちに係の者がいて、慌ただしく動き回っている。それらを遠ざけ馬日碇が立派な建物の中へ入っていくと外で直立して待機する。暫くして戻って来ると「短いが時間が取れたぞ」それいけと招き入れてくれる。
大きな椅子にちょこんと座っている劉協、どうにも落ち着かない様子が手に取るかのように解った。こちらの姿を見付けると椅子から降りた。近寄って行き声をかける。
「無事で何より」「おお、龍よ。董卓が兄を廃して私を帝にするというのだ」
不安そうな表情を覗かせている、そりゃそうだ、異常を感じればそうもなる。歴史上こういった事例はあるんだろうが、いざ自分の身に降りかかれば平常心でいられるやつなんていないよ。
「それを聞いてどう思った?」
「何故、と。長幼の序はあるべきではないか。それに、兄は何も間違いを犯してもいないのに」
確かに。失策を繰り返しあきれ返られ人が離れていった結果、こうなったわけではないからな。
「劉協は正しく、世が狂っているだけだ。長い年月をかけ、この国は崩壊へと向かっている。それは変えようがない事実なんだ」
「そんな……漢は滅びる運命にあるというのか?」
悲壮な叫びはあまりにも小さな声だった。まだ九歳の子供にどれだけの荷を背負わせるつもりなのか。
「国なんてのは必ずいつか滅びる。形あるものはいつか壊れる。これは変わらない真理なんだ。嘆くことはない」
俯いて小さな拳を握りしめる。ああ、ここで終わることを受け入れるようなお前じゃないのは知ってるさ。
「だが――」
「だが、諦めることもない。劉協が帝であり続ける限り国は滅びん。俺がお前を必ず支えてみせる、時機を得てここぞという時に絶対に駆け付ける。それまで決して心を折らずに堪えていて欲しい。出来るよな」
片方の膝をついて両手を劉協の肩に添える。真っすぐに前を向いて、一切の柵を捨て去り笑顔を見せた。涙を溜めていた劉協は、袖で拭うと大きく頷く。
「わかった、何があろうと耐えきってみせる。いつかその日が来るまで待ち続けると誓う」「どれだけ離れていても、俺はお前の味方だ。約束する」
どこか不思議な縁を感じてくれているようだな、これも転生の影響だろう。外が騒がしくなってきた、もう時間はなさそうだ。語り合いたいことは山のようにあるが、そうもいかんか。その場を離れ、視線だけを残して部屋を出た。
外で待っていた馬日碇と目があう。
「一つ借りておきます」
「気にすることはない、こんなものは世代順送りじゃ。用が済んだならさっさと去ね。少しばかり有名になったせいで面倒ごとがこぞってやってくるじゃろうて」
口角をあげて手をさっさと振る。速足で宮を出る、衛門の外で荀彧が待っていた。
「我が君、董卓が兵を集めて待機をかけさせております」
「潮時か。やることはやった、洛陽から離れるぞ」
「御意」