潁川の周辺には、時計回りに河南尹から陳留、陳、汝南、南陽と郡がある。河南尹から直接来るには虎牢関がある榮陽周りで長社を目指すことになる。陳留は友軍といって差し支えない、陳に敵が居て、南陽には味方であろう孫堅が駐屯しているのを知っていた。
「状況を調べなければならないのは汝南太守の徐蓼殿で御座いますね」
それ以外は概ね問題がない、この一言で察する。朱古力瘤 初めて聞く名前なのでじっと荀彧を見る。
「かつて董皇太后の手の者が働いた悪事を暴き、逆に罪を受けて獄へ落とされようとしたというのに、弾劾を強行し風紀を改めたことが御座います。宦官よりの讒言で冤罪を得て、黄巾賊討伐に従軍し功績をあげ無罪放免で故郷に帰っていたところを、先年徴され太守に任官しておられる傑物かと」
「あの手合いの被害者か。どうして漢にはそういう人物を中堅以下の官職に留めるようなきらいがあるな。横やりは入れられずに済みそうだ、と普通なら考えるが、それが落とし穴ともいえるな」
出来ない、無理だと思うところから攻撃をされる、これこそが戦いというものだ。会って話をすることが出来れば結果がどうであれ自身の見る目が無かったとあきらめもつくが、経歴だけで判断しろと言われても困る。
「我等に賛同こそしても、邪魔だてすることは恐らくは無いかと存じますが」
十中八九は反董卓連合側だろうと荀彧が所見を述べる。それには島介も納得ではあるが、誰かが反対をしておかなければ警戒心と言うのは産み出されない。
「俺は仲間以外は信じるつもりはない。利害が一致しているのが次で、正体不明は敵のつもりで考えているんだ。そういう意味では絶対敵だって胡軫の方が相手にしやすいな」
どちらとも解らないならば、もし中立や味方になり得るのを逃すのは失策になってしまう。敵だと解れば様々な妨害も出来るが、そのあたりの加減をしつつ様子を見る、苦手意識だって産まれてしまう。
「我が君の方針、しかと文若の胸に刻ませて頂きます」
「うむ。雪も解けて遠方への行動も起こしやすくなってきている、より広範囲の情報を薄くでよいので気に掛けるようにしておけ」
「畏まりました」
残っていた酒をグイッと一杯飲み込むと盃を置く。
「さて荀彧を解放してやるとするか。奥方が寂しがっているだろう?」
長らく故郷を離れ、戻って来たというのに司令部に詰めっぱなしで滅多に帰宅も出来なかった。そこへようやく島介がやって来たのでお役御免というところ。これにははにかんだ笑みを浮かべて俯くのみ。
「俺は寝る、さっさと帰るんだ」
どうせ床につくつもりもないのに、ぶっきらぼうにそういって追い払おうとする。荀彧が出て行くと、一人で酒を楽しみ空を眺めていた。そこには三日月が浮かんでいて、わけもなく暫く視線を奪われることになる。
◇ 長安の永楽宮、皇帝が住まう宮殿では常に董卓の兵が居て目を光らせていた。生活は董卓が手配した女官が全てをみている。十一歳になった劉協、元より賢いので自身のおかれている立場というのをしっかりと理解していた。
どこであっても監視されているが、唯一その締め付けが弱くなる場所があった。先祖を祀る祖廟だけは、兵士も女官もついてこずに一人でいられる。そこへ付き従うことが出来るのは三公三師と呼ばれる皇帝の補佐のみ。それとて度々ではあやしまれるので、滅多に一緒にはならないようにしていた。
九度頭をさげ礼を尽くすと、ようやく司空稠沸は劉協の方を向く。そこでも同じように拝礼して、顔をあげた。
「稠沸よ、世の動きはどうなっているか」
まだ声変わりすらしていない、身体も小さい、それなのに王者の風格を身に着けている劉協を、稠沸は有り難く敬う。漢室を至宝だと信じて疑わない人物なのだ。