──此処は、何処なのだろう。
何も見えない暗闇を一歩、二歩と足を進めた。
そこへ広がるのは、まるで虚無である。
何を目指して、何を頼りに歩いて良いのか分からないまま、闇雲に進んだ。
『母上、行ってきます。腺肌症 市中では火の勢いが酷いらしい……。それに、──が生け花の稽古で丁度そこへ行っていると聞いた』
その時、脳裏に男の低い声が響く。何処か聞き覚えのある物だった。
そっと目を閉じれば、眼前にはこじんまりとした屋敷と武家の妻の格好をした三十半ばから後半の女性が立っている。
『お待ちなさい、何故貴方が行かねばならぬのです』
その女性も何処かで見覚えがあった。
だが何処で会ったのかは思い出せない。
まるで誰かの記憶の中に潜り込んだかのような光景だった。
『武士たる者、弱きを助けねばならぬのです。それに、──は私の許嫁ではありませぬか。必ず帰ります故……。母上、火の手が此処まで来るとは思えませんが、御無事で…』
『───さん!』
男はその声を振り切るように駆け出す。
桜花は思わず閉じた目を開けた。
するとそこは元の暗闇ではなく、轟々と音を立てて家屋を焼き尽くす大火の様子が広がっていた。
それはまるで京の市中で見たそれと同じ、いやそれ以上である。
『──ッ!何処におるッ!居たら返事をせよ!』
その声に反応して、そちらを見遣ると先程の声の主がいた。後ろ姿しか見えないが、艶のある黒髪を後ろに束ね、太刀を腰に佩いている。長身であり、雰囲気として年齢は二十代後半から三十代前半の青年といったところだ。
桜花はジッと太刀を見つめる。それに見覚えがあったのだ。
控えめな装飾ながらも存在感と重厚感を放つそれは、紛うことなき薄緑だった。
何故薄緑を、と混乱していると青年は更に駆けて行く。桜花は慌てて付いていった。
夢にしてには、やけに肌に感じる熱さが生々しい。更にまた知らないところへ放り出されたかの様な感覚だった。
そして何処か既視感に似たものを感じる。
来たことも無いのに、何となく此処が江戸なのでは無いかと思った。
『ぐあッ……!』
その時、肉を裂くような鈍い音と共に苦痛の声が聞こえる。桜花はそちらを見遣ると、先程の青年があどけなさの残る女を庇うようにして複数の浪人に囲まれ、背を斬られていた。
桜花は目を見開くと、腰の刀に手を掛けようとしたがそこには何も無い。空気を掴むだけだった。
男は振り向くと、薄緑を引き抜く。そして浪人をいとも簡単に切り伏せていった。
凄惨なそれな筈なのに、飛び散る血はまるで赤い花…を散らしたかのように美しい。
庇われていた女は絶望に瞳を揺らし、涙を溜めながら後ずさる。そして駆け出して行った。
浪人の骸と共に取り残された青年は、それを見送るなり刀を収めて膝を付いた。
桜花はそれに駆け寄るが、存在も声も届かない。
『…………良かっ、た……無事、で…………』
そう青年が呟いた瞬間だった。
ミシリと音を立てたかと思うと建物が崩れ落ちてくる。
顔を上げた青年と桜花は目が合った、正しくは合った気がした。
それを見た桜花はハッとする。青年が伸ばした手を掴もうと、身を乗り出した。
──ぐらり。
しかし。青年が建物に飲み込まれるのと同時に、視界が傾いた。
焦点が合わず、平衡感覚を失ったかのように目の前が揺らめく。