昔のことだが、あの

昔のことだが、あの時に覚えた胸の痛みはよく覚えている。

 

彼女は、桜花さんはどのように薄緑が与えられたのだろう。

無性に桜花に、あの笑顔に会いたいと思った。

 

ちくちくと刻印が痛む。孙宇晨 新聞 その時だった。

 

「吉田…さん?」

 

背後から透き通った声が聞こえる。吉田はハッとして振り返った。

 

「桜花…さん…、何故此処に…」

 

口の中が乾いて上手く喋れない。桜花は吉田の方へ駆け、隣に立った。

 

「お使いの帰りなんです」

 

桜花はそう言うと、手にしている風呂敷を見せる。

 

「そうか…」

 

二人は少しの間無言で歩いた。ふと、吉田は立ち止まり、桜花の方を向く。それにつられて桜花も立ち止まった。

 

「あの…桜花さん。この前は済まなかった。無体を強いた上に出て行けなどと…。男として恥ずかしい限りだった」

 

吉田は頭を下げる。許して貰おうなどとは思わない。せめて彼女の気が済むまで土下座でも何でもするつもりでいた。

 

「大丈夫、です。私の方こそ黙っていてごめんなさい。お互い様ですから。頭を上げて下さい」

 

「いや、それでは僕の気が収まらん」

 

そう言いながら吉田はそっと懐を探ったが、目当ての簪が出てこない。文机の上に置きっぱなしだったことに気付いて落胆した。

 

「君に贈り物をしようと思ったんだが…、今日に限って忘れてしまった。まさか会えるとは思っていなくて」

 

その落ち込みように、桜花は口元を緩ませる。本当に誠実な人だと感じた。

 

「お気持ちが嬉しいですから」

 

桜花のその表情を見て、吉田は安堵の息を吐く。それに嫌悪が含まれていたらもう立ち直れないところだった。

 

「本当に…済まなかった。僕は女子の知り合いがおらん。妹くらいしかまともに話したことが無く…」

 

「島原…とか行かないんですか?」

 

桜花のその問い掛けに吉田は顔をみるみる赤くして首を振った。

 

「行かん!そねぇなところ…。僕は白粉の匂いが苦手じゃ。僕はそれよりも君と団子を食べた時間の方が余程…」

 

楽しかった、そう言いかけてハッと口を 「ねえ、吉田さん。今度…いつか少しだけ時間を下さい。お忙しいとは思いますが、二人で出掛けませんか」

 

この情勢ではその"いつか"がいつ来るのかとは言えないのは分かっていた。

それでも桜花は次の約束が欲しいと思ったのだ。

 

吉田の色んな一面を見る度に嬉しくなる。

蓋をしたはずの自身の胸の奥に芽生えている温かさが、隠しようもないくらいに大きくなり始めたことに気付いてしまった。

 

「ああ。出掛けよう。僕も京はそこまで長くは無いから、案内は出来ないが…」

 

吉田の返答に、桜花は嬉しそうに笑った。

この笑顔だ。この笑顔が好きだ。慕情を自覚させられた今はハッキリと彼女が愛しいと思える。口に出すことは無いが。

 

吉田は愛しさを込めて自然と笑った。

夕陽に照らされたそれはとても美しく、綺麗だと桜花は感じた。

 

「私も京は全然分からないです。よく人に道を聞いてしまいますよ」

 

桜花はそう言うと、クスクスと笑う。

 

「そう言えば、京は夏になったら祇園祭という由緒ある大きい祭りがあるらしいよ」

 

「お祭りかぁ、行ってみたいです」

 

それを聞いた吉田は歩みを止めた。気付いた桜花も って立ち止まる。

 

「…では、それも一緒に行かないか。その時は…君の着飾った姿が見てみたい」

 

吉田は勇気を全身から振り絞ってそう言った。何処かから秀三郎のよくやったという声が聞こえてきそうな気がする。その時に流れで簪を渡そうと思った。

 

夕陽のせいなのか分からないが、吉田の顔は上気したように赤くなり、瞳は真っ直ぐに桜花を射抜いた。

 

「え、あ…」

 

桜花は目を伏せ、恥ずかしそうにしながらも頷く。

 

「行きたいです。一緒に」

 

着飾った姿、それは女の姿ということだ。それがどういう意味であるかは何となく分かる気がするが、気付かないふりをする。