「残念……でしたね」
「え? ああ、うん」
「若くして一流企業の部長になった明堂さんを見たら、美股买卖 お母様は喜ばれたでしょうから」
退院した日、萌花にここが俺の育った家だと言ったら、「へぇ」と言われた。
結婚するにあたって、萌花には俺の生い立ちを伝えていたが、彼女は興味なさそうだった。
だから、こんな風に母を思いやる言葉をかけてもらったのは初めてで。
八年も前の、最期に会った母の弱々しい笑顔がまざまざと思い出され、胸が締め付けられた。
「事故は不運でしたけど、こうして明堂さんがこの家を帰る場所に選んでくれて、お母様も嬉しいでしょうね」
相変わらず敬語で他人行儀だけれど、彼女の言葉は、想いは、心の奥の、ずっと奥の、忘れようとしまい込んだ懐かしくて、温かくて、幸せだった頃の記憶に染み入る。乾ききっていたは彼女の言葉で膨張し、心の奥から溢れ出てくる。
一人だったら、きっと、目を背けたままだった。
むしろ、この家に居ながら、この家の記憶を思い出さないようにと頑なになっていたと思う。
彼女の前では、この家にいた頃の自分でいられる。それが、とても心地良かった。
「敬語だし、また明堂さんって呼んだね」
俺はウインナーを口に入れた。
頬に雫が伝ったが、拭える左手にはフォークが握られていて、出来なかった。
「もしかして、俺の名前、知らないとか?」
「……」
「結婚式で一度会っただけだし、仕方ないけど――」
「
絞り出すようなか細い声。
見ると、彼女は顔を真っ赤にして、今にも泣きそう。
そんな彼女を見ていたら、俺まで恥ずかしくなった。顔が熱い。きっと、彼女と同じくらい顔が赤いだろう。
名前を呼ばれただけでこんなに恥ずかしくて、興奮するなんて、自分で自分に「中学生かよ!」とどついてやりたい。
「それも……、結婚式のプロフィール?」
恥ずかし紛れに、フォークを置いてパンを掴む。口いっぱいに頬張ったクロワッサンが、口の中の水分を吸収していく。
「悠久と書いてはるかって……、すごく素敵な名前ですよね」
乾ききった口から、粉々になったクロワッサンが飛び出しそうになる。
彼女の言葉は、いちいち俺を刺激する。
「楽、って名前も可愛い……よ?」
恥ずかしさのあまり、変なところに間があった上に、「よ」の音を一音高く発してしまい、疑問形になってしまった。
これでは、褒めているとは言えない。
が、彼女は更に顔を赤らめて、手で口元を覆った。
状況が違えば、躊躇なく抱き締めている。
俺に妻がいなくて、俺の身体が自由で、俺の身体が女性を悦ばせられたなら、確実に彼女を抱き締めて、抱き上げて、ベッドの上で彼女の髪を解いていた。今日もしっかり留められているシャツのボタンを、外していた。
そう思った後に感じるのは、自分の無力さ。
どれも願うばかりで、今の俺には出来ないことばかり。
「楽、って呼んでいい?」
彼女は口元だけでなく、両手で顔全体を覆っていた。余程恥ずかしいらしい。
だが、小さく頷くのを、俺は見逃さなかった。
「ありがとう。ずっと……呼びたかったんだ。楽、って――」
自分の言葉に、違和感を持った。
ずっと……?
お義姉――楽と出会ったのは十日ほど前。正確には三年前の結婚式で会っているようだが、俺に覚えがないからなしとして。だから、『ずっと』と表現するには、何か違う。
なのに、すっと言葉が出てきた。
いつから、ずっと……?
「間宮悠久、って……いい響きですね」
「響き?」
「はい」
この家の玄関には、今も『間宮』の表札。
戸籍上は『間宮家』は既に絶えているのだが、俺はこの家を壊すことも、表札を下ろすことも出来なかった。
この家は、俺が『間宮悠久』だったことを証明する、唯一の場所。
どうしてこうも、彼女の言葉は俺を過去に引き戻すのか。
「さん、いらないからね」
俺は最後の一口を飲み込んで、言った。いつもより会話に夢中になったせいか、すっかり冷めたベーコン。
「え?」
「悠久さん、って言ったろ? 友達なら、さんは付けないでしょ」
「でも……」
「お――楽は、友達を下の名前で呼んだりしなさそうだよね」
「……」
楽も最後のクロワッサンを噛み、コーヒーで流し込む。
「じゃあさ、『間宮くん』って呼んでみて?」
「ええ!?」
「友達、っぽいでしょ」
「……」
「ほら、ほら」
好きな子を苛めるなんて趣味はないけれど、彼女の困った顔を見るのは、足の裏がムズムズするような、変なくすぐったさを感じる。
「俺も、楽ちゃん、とか呼ぶ?」
「それはっ――! ……やめてください」
「また、敬語」
「……っ!」
「一回だけ」