無造作に歩いて来るハンベエに向かって叫んだのは

無造作に歩いて来るハンベエに向かって叫んだのは、ようやく駆け付けて来たチャードであった。覚悟しろと叫んだが、ハンベエの恐ろしさを知るチャードの強がりであった。そうでも言わなければ、配下の兵士達どころか自分自身さえ気後れしてしまいそうな、怖い怖いハンベエであったのだ。「おお、しばらくだな。少しは腕を上げたか。」と言いながら、ハンベエは刀を右に左にと二振りした。緩慢にも見える動作であったが、前の方にいチャード配下の兵士の首が二つ、道指期貨 ズルッズルッと滑るように落ちた。 その後ろの兵士が思わず後退る。 今この場にチャードが来るのをハンベエはイザベラとの打合せで予め予想していた。逆に言うと、チャードとその配下の軍監察員達はイザベラによって誘き出されたのだ。ハンベエとしては予定通りであった。「まあ、別に積もる話があるわけじゃねえ。所詮敵同士の間柄だ。存分に殺し合おうぜ。」声だけしか聞こえなければ、今にも踊り出しそうな弾んだ口調のハンベエだった。悠揚迫らぬ足取りで進みながら唐竹、逆袈裟、返し胴、更に三人斬った。「怯むな。囲め、敵は一人だ。」後ろから檄を飛ばすチャードであった。兵士達は街道横一杯に広がって、ハンベエ包み込もうと散開した。その瞬間、ゆらゆらとしていたハンベエの動きが稲妻に変わっていた。黒い影と白刃の燦めきが右に左に閃光のように見え、再びフワリと止まった後ろで、血煙が噴き上がり、五人、六人と人が石灯籠が蹴倒されたかのように声も上げ得ずに倒れた。チャードも、百余名の軍監察員も、もう正気ではなくなった。本能が呼び起こす狂気と恐怖の命ずるところに従って、剣を振りかざしてハンベエに襲い掛かって行く。逃げようともしないのは、敵に背を向ける事の恐ろしさを刻み込まれた兵士の本能なのであろう。ハンベエの動きのあまりの速さが、逃げるという思考を奪い去ってしまったのだ。空から生まれたての新月が薄らと地を照らしていた。 早や十余人が倒されていた。予想していたとは言え、人とは思えない敵である。チャードは、改めてハンベエを悪魔の権現だと感じていた。皆、剣を正眼に構えて相手の胸だけを見よ。動きに惑わされるな。」ハンベエとの間に配下の兵士を挟み、後ろに下がって距離を置きつつチャードは叫んでいた。卑怯とは思わなかった。無論、己がハンベエに抗し得るものであれば前に出て戦ったであろう。しかし、赤子の手を捻るようにハンベエに斬られてしまうのは目に見えている。軍監察員を束ねる身としてはそれは出来ない事であった。最悪でも貴族軍達が戦列を整えてこの場に来るまでは、最後の一人となってもハンベエをこの場から逃がさない事。それが自分の役割だとチャードは思っていた。チャードの言葉に配下兵士達は一斉に剣を正眼に構えてハンベエの胸に擬した。正面から寄って来るなら一突き、簡単に斬り込んでは来れぬはずと、そう信じて だが、目の前の悪魔はその構えを嘲笑うかのように、剣尖を擦り抜けて襲って来た。ヒュンっ、ヒュンっ・・・・・・と空気を切り裂く音が数珠繋ぎに連続して起こり、次々に兵士達が倒れて行く。或いは首が落ち、或いは胴体から血を噴き、はたまた肩口首筋から血飛沫(ちしぶき)を上げながら。無言、無拍子、ハンベエは息をしているかのかも怪しまれるほど静かに、しかし目にも止まらぬ速さで剣の林を抜けてゆく。そして、その後ろにバタバタと切り倒される木の如く軍監察の兵士達が倒れて行った。

・・・・・・ヒュンっ、ヒュンっ、ヒュンっ、バタっ、バタっ、バタっ・・・・・・。