土田御前は独り言のように呟いた。
「大殿が何かと信長殿に期待をかけております故、わらわや家臣たちも黙って従っておりまするが、
信長殿ご本人が跡継ぎの座から退いて下されば、信勝が織田家の後継者となり、全てはまるく収まるのです」
「……されど殿には、今のお立場から退くような気はないようにお見受け致しますが?」
濃姫が知っている限りでは、信長本人が跡継ぎであることに不満を抱いている様子も、
その座から退きたい旨を口をしている姿なども、一度も見たことがなかった。
思ったことを素直に口にする信長のことだ。
織田家を継ぐことに不安を抱いているのなら、とうの昔に自ら信秀に廃嫡をせがんでいたはずである。
しかし、そういった様子がまるでなかったということは、少なくとも彼が己の立場をよく自覚し、織田の家を継ぐ意思が充分にあるからだろう。
そう考えると濃姫は益々信長に興味が湧き、何がなんでも彼の真の姿を暴いてやろうと、心を弾ませるのである。
そんな嫁の思いを知らぬ土田御前は、妙に熱っぽい眼差しを濃姫を向けると
「信長殿が辞退されるご様子がない故、こうしてあなた様の元に来たのではありませぬか」
不敵な笑みを浮かべながら、姫ににじり寄った。
「正室であるお濃殿の力で、何とか致してくれませぬか」
「何とかとおっしゃいますと?」
「信長殿が…自ら跡継ぎの座を放棄するように、働きかけてはいただけませぬか」
姑の大胆な頼み事に、濃姫はわっと両眼を広げた。
「わ、私が、殿に !?」
「左様です。お濃殿とて、あのようなうつけ者が跡継ぎでは気が休まらぬでしょう。
あの者が織田家を継いだせいで、僅か数年後には婚家がなくなっている──そういう事態も起こりうるかもしれませぬぞ」
「まさかそんな…」
「いいえ、あのうつけ者のこと、きっと織田家を滅ぼしてしまうに相違ない!」
土田御前は半ば忌々しそうに叫ぶと、濃姫の片手を取り、自身の両手で包み込むように握った。
「このわらわを、いや、尾張一国を救うために、どうかどうか、お濃殿の力を貸しておくれ」
「……」
「信長殿に跡継ぎの座を諦めるよう、説いてくれるだけで良いのです。何卒お力を」
「…義母上様…」
姑の思惑を前に、濃姫は大いに戸惑った。
その願いを受け入れることは絶対に出来ない。
しかし無下に断って、土田御前とぎくしゃくした仲にもなりたくない…。
こういう時、どう対応したら良いのか分からず濃姫は軽く恐慌的になっていた。
「──儂の嫁に無理強いするのはやめていただこうか、母上」
すると、横の襖がパンッ!と気持ちの良い音を立てて開き、その奥から、
いつもの袖なし帷子を纏った信長が、強気な笑みを浮かべながら現れた。
土田御前はあまりにも急な息子の出現に驚き、数秒の間だけ声を失っていた。
「殿…!?」
濃姫も驚き顔で信長を仰ぐ。
「平手の爺に言われて、久方ぶりに妻の顔を拝みに来てみれば、このザマじゃ。
油断も隙もないとは、このことを言うのであろうな。のう、母上様」
半ば挑発するような目付きで、信長は実母を見据えた。
「…な、何を!親に向かって何という口の利き方!無礼ですぞ信長殿!」
「ほぉ─。儂の知らぬところで、儂の廃嫡を目論む母上の行いは無礼ではないと申されますか?」
「わ、わらわは別に、そのような事…」
「品性を重んじられるが故に、信勝を跡継ぎにと推しておられる割には、ご自身は随分と品に欠ける真似をなさるのですな」
「なっ」